毎日原稿用紙1枚分

毎日400字以内の意見表明

新種の悪魔

 いつだって悪魔は隣人だ。かつて彼らは異教徒とか同性愛者とも呼ばれた。凄惨な魔女狩りの末、人類は愛と理性に目覚め、悪魔は人に姿を変え、受け入れられていったはずだった。しかし、愛と自由の時代に新たな悪魔が現れる。小児性愛者だ。

 かつて同性愛は背徳の烙印を押されていた。欧米に限らず、近代以降、この国でも同性愛は差別されてきた。だが、小児性愛は問題視さえされなかった。それは確固たる事実だ。

 小児性愛は児童を傷つけるから悪だ、という意見がある。なるほど、同性愛者は同性を襲わないのだろうか。異性愛者に強姦罪は適用されないのか。

 人は学ばない。次々と悪魔を作り出しては火炙りにし、己の所業を省みては戦慄し、過去に野蛮の烙印を押し続ける。欲望が常に背徳と裏表だからこそ、人々は安心を求め、善悪の二分法で少数派を斬り、その生き血に酔う。隣人を生贄にして享楽に耽る私たちが、悪魔でない証拠はあるのだろうか。

幸せになりたいとき

 幸福は暴れ馬だ。いまだ満足な定義すらないのに、人々はそれを自明のものとし、求めては得られず、落胆と失望の日々を送っている。束の間の幸せを得ても、早ければ数秒以内に不満が募り、そしてまた正体不明の財宝を追いかけ始める。

 古今東西、幸福論には枚挙に暇がない。宗教や哲学的なものだったり、経済力のような客観的指標に訴えるもの、近年では脳科学を中心とした生物学的な見解も多い。

 皮肉だが、人が幸福について考えるとき、そこには必ず不幸や不満の感覚がつきまとう。なぜなら、欲望は欠乏を認知したときにこそ生じるからだ。あなたが幸せになりたいとき、そう、実に幸せではないのだ。

 恐らく人は幸せを求めるよう生まれついている。そして決して満足することはない。何事にも不満を抱き、悩み、苦しみ、その過程の中に輪郭のない幸福の幻影を垣間見る。まるで幸と不幸の交わらない二本線の間に、人生のすべてが収められてしまうかのように。

問答無用の言い訳

 言い訳をするな、という台詞は現代社会の頻出用語だ。表面的には自己保身を諌める言葉だが、それも本心では相手を屈服させる体のいい言い訳だったりするのかもしれない。どちらにしろ、そうした言い訳の無限後退から逃れる手段はなさそうだ。

 人間は理由付けする動物。どんな選択であれ、その意思には必ず理由が添えられる。空腹時に食料を求めるのと同様、それは本能的な営みだろう。創世神話や空想の生き物の多くも、世界の不思議さに対する理由付けから作り出されたらしい。

 言い訳の本能は、心の保護機能なのだと思う。どんな選択をしたとしても、しなかったとしても、心(すなわち脳)は自動的に意味や理由を見出してくれる。誰かが語ったように、後から人生を振り返り、点と点を結びつけてくれるのだ。

 もしそうなら、後悔に怯えて生きる必要はないのかもしれない。どんな人生を歩もうと、最期には悔いも過ちも漏れなく弁護されてしまうのだから。

生まれてこない子どもたち

 子どもが足りない。まったく足りていない。少子化問題は日に日に注目を集め、様々な角度から熱心に論じられている。

 若者の未婚率の高さを嘆く声も多い。貧困化だとか社交力の低下が主犯として糾弾されているが、独身者が社会的に放置されていたり、交際や結婚に高い経済力や社交性が求められている時点で、そうした問題は論じるまでもない当然の帰結だ。

そもそも、少子化は解決できるのだろうか。その前提に疑問が呈されることはほとんどない。楽観は結構だが、どうして無根拠に解決可能と信じ切れるのだろうか。世界のどこを見回しても、少子化を完全に解決した例など存在しないのに。

 かつて子どもは当然のように生まれた。社会がすべての男女にそれを期待し、また事実上強制した結果だ。選択の余地がなかったとも言える。だが、選択の自由は種の淘汰圧として作用し、少子化を加速させた。自由な空気は、人類にとって致死性の毒ガスなのかもしれない。